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映画「国宝」を観て その①

映画「国宝」を観て思ったこと

藤娘、道成寺、鷺娘とくれば観に行くしかないと思いつつなかなか行けず。ようやく鑑賞。できるだけ前情報を入れずにまっさらな気持ちで行った。素直に心に浮かんだことをあれこれ。とにかく涙があふれた。

歌舞伎も好きだし、ご存じの通り日本舞踊を30年以上踊っていた私、芸能界にいた子供のころにの視点を心の赴くままに。

歌舞伎舞踊

喜久雄と俊介のお稽古風景がほとんど暴力というかハラスメントのシーンに驚く人も多かったと思う。伝統芸能の世界では多かれ少なかれスパルタは事実である。暴力こそ受けたことはないが、伝統芸能はとにかく型が大切。伝承、口伝がメインなので昔はお稽古の様子をビデオに収めて復習などはもちろんできない。教えてもらったことは、帰り道にすぐさま思い出し、ノートに書きこんでいた。ただそのメモにセオリーがなく「右に回って右手上げて、おくびを一、二、三」とか我流ゆえ自分のノートを読み返してもわからくなることが多かった。だからこそ花井半次郎が子供たちにお稽古をつけるときの体に覚えさせる教え方は理にかなっているのだ。

~「貝殻骨を引き寄せて」と背中に墨汁で線を引く。~手順や振り付けを覚えるのはもちろん大切だが、基本的な型が体に染みついていないとお話にならないのが伝統芸能である。社交ダンスを教わっている今、大きな鏡があるスタジオにまだ馴染めていない。鏡を見て振りを覚えるなんてもってのほかだったからである。とにかく体で正解を覚える。師匠もお手本を見せて、違いを指摘して、弟子に繰り返し覚えさせる。貝殻骨(かいがらぼね)で教わった私は肩甲骨のことだと知ったのは大人になってから。俗称や業界用語も懐かしい。型があってこそのその人らしさ。これはどの業界にも通じるものがあると思う。守破離ともいう基礎基本をまっさらな気持ちでどれだけ自分に積み重ねることができるかが大切なのだ。

日本舞踊の師範試験は、どんなベテランも老いも若きも同じ条件で踊る。子供が初めに習う舞踊をいかに正確に素直に踊ることができるかをジャッジされる。

吉沢亮さん、横浜流星さんの踊りは本当にすごい。今回の映画で初めて舞踊をご覧になった人も多いそう。彼らの舞踊はどうかと質問される。前述のように型を覚えるのに何年もかかる。役になり切りつつ、かつ藤娘では藤の精霊、道成寺は恋に身を焦がす白拍子として踊るのだから、歌舞伎役者さんより倍の苦労と努力があったに違いない。もともと吉沢さんは女形の印象、横浜さんはどちらかといえば骨っぽい印象だから差があるとはいえ、あれほどの小道具使いや衣装の裾裁き、着物の袂の扱いなど身に着けたことは想像を超えて素晴らしいと思った。個人的には横浜さんが本来の佇まいを一切消した女形の所作が光っていたと思う。吉沢さんは言うまでもなく美しい。

例えば道成寺に出てくる振り鼓(ふりつづみ・鈴が入った小さな太鼓)をタンバリンのように両手に持ち、パンパンと合わせて鳴らす振りは簡単なようで実に難しい。両方の振り鼓をきちんと二つ合わせて鳴らすことや、振り鼓が自分の手のように手首に沿わせて舞い踊ること、それだけでも半年かかったりする。それぞれの演目の小道具の扱いだけでも、気が遠くなる。

二人娘道成寺も圧巻だった。一人で踊る京鹿子娘道成寺を若いころ踊ったことがある。安珍清姫伝説を題材にした歌舞伎舞踊は誰もが憧れる演目だ。蛇体となって鐘に飛び込むというものなので、踊る前、お稽古をつけていただく前に和歌山の道成寺にお参りにいってから踊る。お稽古中に熱が出たり、体にウロコのようなあざができたという人もいた。ちなみに私は足指を骨折した。長年、芸能の世界にいるとこのような話はまやかしでない気がするエピソードに出会っている。ひと演目1時間以上はかかる。実質踊っているのも60分くらいは踊るので気力、体力、集中力すべてを研ぎ澄ませて踊る大役、しかも二人で踊るというこの演目は難しい。

「国宝」の映画の二人はこちらをどれくらいの期間でお稽古されたのか。きっと血反吐を吐くような努力あってのもの。

以前、坂東玉三郎さんと中村七之助さんの二人娘道成寺を拝見した。お互いの個性とそれぞれの美しさをぶつけ合うことで、陰陽、一つになる幽玄の世界観が忘れられない。二人で踊るのは男女で踊るもの、同じ役柄を踊るもの、それぞれ深いものがある。シンクロしつつ、自分の個性を出すが押し出し過ぎては舞台が台無しになる。対照的に踊りつつ、最終的にお客様はどちらの誰を観るのか、舞台に立った経験がある身としてはこれも怖い。極論、その役になり切った人が多くの視線を集めるに違いない。そんなことを思いながらスクリーンを見て泣いた。

だからといって俳優さんと歌舞伎役者さんの芸はまた別物だ。俳優の役柄としての舞踊と、プロフェッショナルの舞踊を天秤にかけることは違う話だと思っている。双方のプロ意識に敬意を払うべき。

藤娘は子供の初舞台によく選ばれる演目だ。手習い、習い始めにたくさんの基本が詰まった踊りで振りがシンプル。併せて、ベテランが改めて藤娘を踊ることも多い。「くどき」という手ぬぐいで女心を語る所作事がある。切なさとか、好きな人を思う心情を手ぬぐいをそっと口に含む所作は6歳の子供と熟練の大人が踊るとでは当然違いが出る。年齢は関係ないが、その人が積み重ねた芸、それぞれの役者さんがどんな風に型を大切にしてきたかが良く見える演目だと思う。80歳の役者さんが踊っても、磨いた芸によって可憐な少女に見える。型を超えたその人の人生がにじみ出る。型があるからこそ、違いが楽しめる歌舞伎舞踊の醍醐味だ。

止まらない震え

喜久雄が半次郎の代役に大抜擢されて、楽屋でお化粧をする手が震える。舞台やステージ、登壇、プレゼン、人前に立つ経験がある人は誰もが経験する緊張と怖れ。表舞台だけでなく、ビジネスのシーンでもあり得る。準備不足を思い出したり、自分のポジションが果たして身の丈に合っているのか、誰も見てくれかったらどうしよう、間違えたらどうしよう、と本番前に様々な感情が湧いてくる。特に喜久雄は血筋がない、後ろ盾がない自分を嫌というほど思い知らされた瞬間だった。場数を踏むことはとても大切だと考える。平常心、通常通り、お稽古した成果、心のバランスを持つのは自分次第。誰に何を言われようと、揺るがない軸を持って本番に挑むのは経験がものをいう。舞台は魔物。本番の直前に自分に足りないものが降りてくる。

できる限りの準備をしていても、心を揺さぶるものはどんどん増えてくる。人気や認知度が上がっても同じことが言える。目に見えないプレッシャーは、芸の邪魔をする。だから精一杯お稽古する。

自分のことを言うと、小さいころから不器用だ。二人娘道成寺のように、私の初舞台は連獅子の中で上演される「胡蝶」という二羽の蝶。とても上手な同い年の女の子と、初心者の私が組んで踊る。相手の女の子のお母さんは清元のお師匠さん。私は児童劇団から個人的に日本舞踊を習い始めたばかり。所作や手順(ルーティン)を覚えるのに精いっぱい。なんでこんな私が選ばれたのか、もっと他の人でもよかったのではないか、芸の差を子供ながらに痛々しく感じながら1年半以上のお稽古に挑んだ。

自慢話だが、「日本一!」の掛け声をいただく本番に、自分の努力は報われると感じた。それが5歳。ただ、ひたすら歯を食いしばって喜久雄が俊介に追いつこうと必死だったように私は、もしかしたらラッキーだったかもしれないと気付いた。追い上げてくる私を相手の女の子はどんな思いで見て、お稽古していたのか。もしかしたら何とも思っていないかもしれないし、下手な私を引き上げて大変だったと思っているかもしれない。追う側、追われる側、器用、不器用、どんな立場でも本番前はきっと震える。震える手を止める方法は自分で見つけるしかない。

こんな、思ったあれこれをもう少し書いてみようと思う。その②に続く